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高3アカデミックリテラシーで明学大の先生による講義「教養原論」を行いました<第5回>

10月23日(金)5・6時間目、高校3年生推薦進学コースの授業「アカデミックリテラシー」で、明治学院大学社会学部社会福祉学科教授の明石留美子先生が「教養原論」の講義をしてくださいました。

「教養原論」全体の講義テーマ「『他者』と向き合う」を元に、「社会福祉学からみた『他者』」と題して講義が行われました。生徒たちは社会福祉とは何か、社会福祉では他者をどのようにとらえるかを知りました。また自分を認識し、まわりの人と共有することで他者を理解しました。そして、それぞれが外国にルーツをもつ人々と共生できるのかを考えました。作業や意見交換によって、人を客観的に見ることや、共生について考えたようです。

生徒の意見・感想を紹介します。

  • 他者という存在を社会福祉の視点から捉える講義だった。社会の中での「他者」はかなり範囲が大きくて、様々な問題を抱えていることがよくわかった。自分と関わりのあるもの、影響を受けているものについてのエコマップを書くことで自分と他者の繋がり、影響を受ける強さ、弱さ、ストレスを感じるもの、心の拠り所になっているものなど自分について見つめ直す事が出来た。
  • 印象深かったことは、在留外国人との共生についてだ。在留外国人は年々増え続けている。そのため、外国にルーツを持つ子どもたちも同様に増えている。しかし、今の日本にはなかなか外国にルーツを持つ子どもたちに寄り添う学校、施設となっていないのが現状だ。日本がそのような子どもたちに寄り添う社会になるといいと感じた。
  • 社会福祉学からみた「他者」とは、尊厳と人権、多次元、エコロジカル、エコマップなどの考えを通して学んでいて、これまで講義を聞いた学部の「他者」とはまた違った視点から物事を考えていて面白いと思いました。社会福祉は、個々のニーズに応え、エンパワーし、誰1人残さないSDGsの努力をしていると学び、とても興味深い分野でした。
  • 人は社会環境の中で生存し行動するため、人が生存していく上で他者との関わりは欠かすことができないという言葉が印象に残った。また、エコマップで自分に影響を与えるものが自分にとってどういう存在なのかを書き出していくことで、自分自身を理解することができた。自分は何を思っているか、何が好きか、嫌いかを知ることで他者も理解できるという社会福祉学の考え方がとても興味深いと思った。
  • 今回の講義で、社会福祉に対するイメージが変わりました。元々、福祉というイメージはありましたが、「誰一人残さない」というSDGsの努力をしているというのが分かり、他者である人に寄り添えるのだなと感じました。日本は労働者不足から外国人労働者が増えていて、私たちは外国人と共生していくべきだと考えます。
  • 社会生活を営む殆どの人間には「他者」との関わりが不可欠である。中には社会に統合されることを厭う人々もいるかもしれないが、そのような人をもありのままで受け入れエンパワーメントに導く社会福祉の概念が理解できた。「行動する」前に「考える」必要性を改めて実感した。
  • 私は外国にルーツを持つ人々とすべてではないが共生できると考える。なぜなら今の時代は外国人を積極的に受け入れる体制や住みやすい環境が整えられつつあると考えるからだ。共生するための困難の一つが、それぞれの当たり前が異なる場合など、文化の差だと考える。お互いがお互いを理解して、臨機応変に対応する必要がある。
  • エコマップを周りの人と共有することで、基本的な構成要素はお互いに似ていることが分かった。個性の出る構成要素があるはずだと先生はおっしゃっていたが、周りにはあまり個性のある回答は無かった。私も含め周りと違う行動をしないように日頃から無意識に行動していたり、人と違うのは恥ずかしくて書けなかったりしたのかもしれないと感じた。社会福祉といえば、貧困国への支援や外国人労働者に対しての問題を解決するイメージが強かったが、それだけでなく全ての人の生活の質の向上を目指し、かつSDG’sの達成に取り組んでいると知ることができた。
  • 普段、何も意識せずに他者と関わってきた。しかし、生活する上で必要な知識や、気づきは大切なことなので、細かいことにもう少し意識をして生活していきたい。他者との関わりはこれからも進んでいくので、人と人との関係性や関わり方についてもう少し学んでみたいと感じた。
  • 以前より言語の違いによって生じる問題が少なくなっているため、共生することが容易になってきていると考える。コミュニケーションを手助けする機械の技術も日々進んでおり、違う言語の言葉がリアルタイムで、しかも流暢な日本語に変換されて聞こえてくるようになる日もそう遠くないだろう。グローバル化の進む現代の社会の流れを拒んで、外国人と共生する事を拒否することは、軽い鎖国のようなものと言える。言語や文化の違いはあれども、その違いで共生することを拒むのは合理的ではないと考える。